永井豪 永井豪エッセイ「豪氏力研究所」 水木しげる

今週は『豪氏力研究所』スペシャル! 今年傘寿(80歳)を迎えた超ベテランマンガ家水木しげる氏との対談をお送りします。永井豪氏が悪魔の伝道師なら、水木しげる氏は妖怪世界のスポークスマン。この“悪魔vs.妖怪対談”は、東京郊外にある水木氏の事務所で、妖怪グッズに囲まれながら、楽しく行われました。

動画撮影・編集/水谷明希


妖怪が住みづらい時代になった

 
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自身も“鬼シリーズ”を描き、悪魔はもちろん妖怪の世界にも強い興味を持つ永井豪氏。また、先輩のマンガ家の方と会う機会もあまりないとあって、この対談を楽しみにしていたとか。まずは再会の挨拶からスタート。
永井豪(以下、豪):水木先生とは出版社のパーティーとかで何度かお会いしていますが、一度、漫画雑誌の編集者のお誘いで、食事をご一緒したことがありますよね。そのときに、先生が“いかもの食い”だというお話を伺ったんですよ。ガラスを食べてみたことがあるとか、国旗の上にある金の飾りをかじりたくなって、旗竿によじ上ったとか(笑)。

水木しげる(以下、水木):あの金色の玉が、ものすごく美味しそうなんですよね(笑)。

豪:だから僕は、妖怪は先生自身ではないかと思ったんですよ。

水木:そうですか(笑)。私の小さい頃は、暗いところには妖怪がいるんだと思っていましてね。妖怪の話をしょっちゅうするお婆さんもいたもんだから。だから、夜は怖かったですね。昔は電気もなかったし、道も真っ暗でした。もう、夜は家にいるしかない。

豪:闇が多いと人間はいろいろ想像するから、昔の人のほうが想像力があったと思うんですよね。僕なんかも小さいとき、怪物の姿とかをいろいろ想像しましたが、想像していると本当に目の前に見えてくるんですよね。

水木:最近はTVとか雑誌とか、世の中がにぎやかになってきましたからね。こういう今の時代の妖怪と、私が小さい頃の妖怪は、なんか違うみたいですね。昔の妖怪は闇夜にいて、大昔からの生活を続けている感じなんです。今のように、闇夜に街灯なんかが点くようになると、昔の妖怪は出なくなるんですね。

永井豪×水木しげる 対談
永井豪(ながい・ごう)
1945年9月6日、石川県輪島市に生まれる。 石ノ森章太郎氏のアシスタントを経て、'67年『目明しポリ吉』でデビュー。'68年『ハレンチ学園』を連載開始、たちまち大人気を博し、以後現在に至るまで、幅広いジャンルの作品を大量に執筆し続けている。代表作は『デビルマン』『マジンガーZ』 『凄ノ王』『キューティーハニー』など多数。
豪:電気が妖怪を駆逐していったんですね。

水木:そうなんです。電気ができる前は、夜は提灯でしたけど、提灯は怖いんですよ。おんぼろげなものは特に妖怪風で(笑)。でも、文明が進んでつまらなくなった面も多いですけど、つまるようになった面もありますね。お菓子でも普通に食べられるようになったし(笑)。

豪:『生まれたときから「妖怪」だった』という先生の自叙伝を読ませていただきましたけど、戦後アパートに住まれているときに、紙芝居の絵描きさんがいて、その人に誘われて紙芝居を始められたのが、マンガ家になられたきっかけなんですよね?

水木:戦争が終わって、南方から引き揚げてきましてね。食うために働かないといけなかったんですが、出来れば好きなことをやって食いたいと思いましてね。好きなものと言えば、自分には絵しかなかったんです。嫌いなことをするのは、嫌いだから。

豪:僕の小さい頃の記憶なんですが、火星人の乗ったタコ型のロボットが出てきて暴れる紙芝居があったんですよ。ああいうストーリーは、今にして思えば水木先生じゃないかなと思うんですが……。

水木:火星人の出てくる紙芝居は、面白がってよく描きましたよ。

豪:じゃ、やっぱりそうかもしれませんね。昭和23〜24年でしたか、ものすごく記憶に残ってるんですよ。

水木:当時は貧乏でしたから、子供たちの楽しみというと、みんな紙芝居を見ていましたね。それが、ちょっと豊かになってくると、すぐ貸本マンガの時代になって。本当に、急激に増えたんですよ、貸本屋が。


『ロケットマン』は水木マンガの原点

 
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2002年10月26日に発売される
『水木しげるオフィシャルBOX 妖怪世界遺産』の目玉の一つに、貸本マンガ時代のデビュー作の復刻版がある。リアルタイムで貸本マンガを読んでいた永井豪氏が、貸本マンガ時代の現場に迫る。
豪:僕は完全に貸本世代なんですよ。小学校のときは学校から帰るとまず貸本屋に直行して、何時間もかけて何冊も見て1冊だけ借りてくる、という毎日でした。

水木:あの貸本マンガつうのは残酷な世界でして。いわゆる絵物語の挿絵画家から転向する人が多かったんですが、貸本マンガの世界に入って、2冊3冊と続く人はいいんだけど、たいてい1冊で首が落ちる。売れないという理由で。

豪:え、そうなんですか?

永井豪×水木しげる 対談
水木しげる(みずき・しげる)
1922年3月8日、鳥取県境港市に生まれる。紙芝居作り、貸本マンガ家時代を経て、'65年『テレビくん』で第6回講談社児童漫画賞を受賞。以後『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』などを発表。'89年『昭和史』で第13回講談社漫画賞、'91年NHK放映の『のんのんばあとオレ』で平成3年度文化庁芸術作品賞、'96年第25回日本漫画家協会賞文部大臣賞の各賞を受賞。日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員。'91年紫綬褒章を受章。
水木:貸本出版社自身も、マンガがあんまりわからんのですよ、だから、誰でもとりあえず1冊描かせて出してみて、売れなかったら終わり。6〜7割の人は1冊で終わり。貸本マンガ出版社で打ち合わせをしていると、生活のために金を得なきゃならん人が、原稿持ってやってくるんですよ。そういう人たちは必死で、いつも腹をすかしていて、その人の姿のほうが絵より迫力があって(笑)。悲劇というか、喜劇というか、可哀相なんだけどおかしくてね。日本中貧乏で、餓死しかけた人も多かったし。

豪:そういう中で、水木先生は『ロケットマン』でデビューされて、それがヒットして、次々と本を出されたわけですね。当時の貸本マンガのページ数は100ページくらいですか? 当時100枚描くのは大変ですよね。

水木:私が言うのもおかしいけれど、話の筋を作れる人が少なかったんですよ。絵描きではあるけれどもストーリーができない、という人が多かった。だから売れなくて、すぐに首になっちゃう。

豪:『ロケットマン』を当時借りて読んだかどうか、記憶が定かではないんですけど、今回復刻になるということで、コピーで読ませていただいたんです。これ、SFの形を取ってますけど、もうすでに妖怪マンガの原点的な作品になってるなあと思いました。『ゲゲゲの鬼太郎』などの原点が、すでに『ロケットマン』に入っていることが、改めて確認できました。

水木:『墓場鬼太郎』『悪魔くん』も、最初は貸本マンガの単行本でしたね。

豪:ほかにも、貸本時代の水木先生の作品では、『地獄』という作品が大好きだったんですよ。本当に衝撃的でした。地獄で鬼が人間を三枚に下ろしたり。残酷なシーンなんだけど、水木先生の絵柄だとすごくユーモラスに見えて、それがまた逆に怖いなと。


地獄から地獄、貸本から週刊連載

 
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貸本時代の終了とともに、マンガは週刊誌時代に突入した。その激動の時代を体験した水木しげる氏。一方、その頃プロとしてデビュー、同じく週刊誌で連載を始めていた永井豪氏。同じ雑誌で連載した苦労話に花が咲く。
水木:でも、マンガ週刊誌が出来てからは、いっぱいあった貸本マンガ屋が、アッという間になくなってしまった。まさかそんなに早く消えてなくなるとは思いませんでしたね。週刊誌の力は大きいですね。

豪:昭和38〜39年ぐらいですかね。貸本マンガ屋がなくなってきたのは。僕がデビューするころは、ほとんどなくなっていましたね。でも水木先生は、マンガ週刊誌のほうでもすぐに活躍されましたから。

水木:講談社の人も貸本マンガで読んでたらしくて、描かないかという話がきたんです。それから、ようやく人間らしい生活ができるようになりました(笑)。それまではいつ首になるかわからない生活でしたから。貸本マンガだと、1ヵ月後はどうなるかわからない。大体、貸本出版社自体が2〜3ヵ月後どうなるかわからない(笑)。

豪:貸本時代の鬼太郎は、目玉おやじがぽろりと鬼太郎の目から出たりして怖かったんですけど、『少年マガジン』に載ったらずいぶん可愛らしくなってましたね(笑)。

永井豪×水木しげる 対談
水木:“墓場”はいけないっていうから、じゃあ“ゲゲゲ”にしましょうとか(笑)。あまり残酷すぎるのは……、ってことでしたなあ。鬼太郎が売れて、それでようやく生活が安定した状態で描けるようになったんです。でも、この世界はまだ油断がならない(笑)。

豪:そうおっしゃいながら、もう50年くらいですか(笑)?

水木:マンガ週刊誌で描くようになって、経済的には楽になったんですけど、仕事は楽にならない(笑)。私は徹夜が嫌いなんですが、でも週刊誌だと仕方がなくて徹夜を週に2〜3回、それも毎週してました。出版社は、何で週刊誌をやるんでしょう。やっぱり週刊誌は月刊の4倍出ますから、儲かるんですかね。

豪:いやあ、それは儲かりますよ(笑)。

水木:週刊誌だと、もうそれにかかりっきりになる感じで。えらい(関西の言葉で「しんどい」)ことは本当にえらいですよね。もう、えらかった。旅行もできないし。締め切り前には編集者は来ているし。やっぱり体力がないと。最後は健康な人だけが生き残ったのかもわからんね。

豪:でも絵はすごかったですね、点描とかあって。アシスタントは泣いたんじゃないですか(笑)? 水木先生とは、同じ時期に『少年マガジン』で連載してましたよね。僕はあの当時ギャグマンガを描いていましたけど、『(ゲゲゲの)鬼太郎』の『大海獣』というシリーズがあって、あれがものすごく好きだったんですよ。


それぞれの“悪魔”へのアプローチ

 
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水木しげる氏が悪魔を題材に描いた作品が『悪魔くん』。永井豪氏が悪魔を描くにあたり、『悪魔くん』の存在はどう影響したのかが明かされる。そして話題は、水木氏が愛してやまない「南方」への憧れへと続いていく。
豪:『悪魔くん』は、どういう発想で始められたんですか?

水木:『悪魔くん』は、外国の妖怪を描きたいと思って始めたんですよ。やっぱり私は妖怪好きだから、『(ゲゲゲの)鬼太郎』とはまた違った感じで描きたいと。

豪:僕も悪魔に対する興味はありましたけど、やっぱりファウスト博士魔法陣は水木先生がやられてたので、悪魔を描くなら違う方向から描かなければならないなと思いました。直接影響を受けたという訳ではないんですけど、とりあえず、水木先生のやられていることは思いっきり避けて(笑)、違うアプローチをしようと思いました。でも、僕がもしも『悪魔くん』を描いていたとしたら、どんなストーリーの作品になったかなと、ときどき考えることがありました。──メフィストのキャラクターが、貸本マンガの時と変わりましたよね?

水木:『悪魔くん』のことは、半分忘れてますね(笑)。連載は昭和41年だったかな。

永井豪×水木しげる 対談
豪:辛い思い出だけだったんですね(笑)。でも水木先生は、貸本マンガ時代の蓄積があったから、アイディアには困らなかったんじゃないですか?

水木:多少は困らなかったというものの、しょっちゅう考えてなくちゃならなくて、遊ぼうなんてことに頭がいかない。やっぱり週刊誌は、「重き荷を背負って山道を行くが如し」で(笑)。面白くなかったり、読者のハガキが少ないとすぐ……一所懸命良いアイディア出さないと、と必死でした。経済的には余裕ができたけど、精神的には余裕がなくなりましたね。好きなものだけ描くわけにはいかないし。

豪:でも、今は月刊誌も増えてきて、マニアックな作品も増えていますから、あの貸本マンガ時代の自由な雰囲気が蘇っているかもしれませんね。週刊誌だと内容も限定されちゃいますけど、今はかなりそれを離れたものを描ける場もあると思います。

水木:なるほどね。

豪:話は変わりますが、水木先生は太平洋戦争で行かれて以来、南方のほうがお好きなんですよね?

水木:好きですよ。南方がいいのはね、気候です。冬がないから備えをする必要がなくて、その日を食っていられればいい。大体天然の冷暖房で自然が守ってくれますから。まずいもの食ってても気にならないし、寝る時間も自由だし、「自然な怠け者」っていうか。日本みたいにあくせくしなくて。

豪:いい生活ですねえ、ノンキで。

永井豪×水木しげる 対談
水木:ノンキな暮らしですよ。私がいた南方では、セックスのことを「プスプス」っていうんですが、昼間にも畑でプスプス、働いていてもプスプス(笑)。暑いから野外でするっていってました。なかなかそういう所を見ることはありませんが(笑)。ま、日本でもそうですけど(笑)。7月頃の気候だと、人間はいつも発情してるんじゃないでしょうかね。どうして人が増えないのかなと思うんですけど(笑)、暑さのせいですかね。私も暑さは平気だったから、引き揚げの時、地元の人が是非残れっていうんですよ。家も建ててやる、畑も作ってやる、嫁さんも世話してやると。

豪:そっちのほうがよかったかもしれない(笑)。

水木:会うたびに熱心に言われるので、じゃあ残ろうかなと思って、軍に相談したんですよ。そしたら「いやあ、それはいいけれど、今一度、お父さんお母さんの顔を見てからにしたほうがいいんじゃないか」って言われまして(笑)。一旦帰ったら、日本がマッカーサーに占領されちゃって、そのまま行けなくなってしまいました。私は再び「帰ってくる」つもりだったんですが。

(おわり)
(c)永井豪/ダイナミックプロダクション2002
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豪氏力研究所  りてる


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